第1部 限りない夢、あふれる情熱 第1回
2009年 9月 7日 月曜日さぁ~ッ、私 「 吾妻山の風 」 と一緒に、本田宗一郎氏自らが描いたその限りない 「 夢 」 の 実現に、どのようにチャレンジされたのか、幸いにその生々しいエピソードが残されておりますので、それらの活動事例を、青年農業経営者の皆さんと一緒に読み解いてゆきたいと思います。
その読み解く材料として取り上げたのが 「 語り継ぎたいこと、チャレンジの50年 『 大いなる夢の実現 』 」 な のです。
この、 「 語り継ぎたいこと、チャレンジの50年 『 大いなる夢の実現 』 」 は、日本が世界に誇る事のできる経営者 「 本田宗一郎氏 」 が 企業人として歩まれたの人生の行程を綴ったものです。
その彼の行程から、経営上の 「 知恵 」 を 戴くために、私 「 吾妻山の風 」 が 独断と偏見を交えながら、農業経営者としての視点で解釈を加えてみたいと思います。
「 本田宗一郎氏 」 の 人生の足跡を皆さんと共に辿りながら、
その時々に彼が発した言葉や現した著書なども合わせて紹介しながら、進みたいと思います。
その紹介と共に、その エピソード が 「 何故に、今日まで伝えられているのか 」
或いは、彼が発した言葉や著書の一部が、
実践的な経営を学ぶ経営者の間で光り輝き、
「 名言 ・ 格言 」 と して伝わっているのは 何故なのか?
その 「 エピソード 」 「 名言・格言 」 を基に、
経営者として どの様に 「 夢 」 に立ち向かえばよいのかを考えて参ります。
青年農業経営者の皆さんが、
急速に進展するグローバル化の荒波を乗り切り、
本物の農業経営者として世界と競争し、羽ばたくためには、
その ・珠・玉・ の 「 名言・格言 」 を ・・咀・・嚼・・ し、
身につけると共に、経営改革を進める前提として、
「 自らの意識の変革 = 自己変革 」 重ねてゆくのが、
限られた人生を歩むには近道とも考えますので、
これらの中からも大いに学び取って頂きたいと願っています。
さらに青年農業経営者の皆さんが、自らが描いた大切な 「 夢 」 に 向かって邁進する際、
必ず遭遇するであろう 「 さまざまな困難 」 や、 「 絶望の淵に立たされる事 」 、が 想定されます。
したがって、それに立ち向かう 「 勇気 」 と 「 希望 」 、
さらにはその状況に遭遇した場合、それをどの様に捉え、 「 どう立ち向かえばよいのか?」 等 の 「 知恵 」
も探ってみたいと思います。
青年農業経営者の皆さんそれぞれが、このコーナーをお読み頂く事により、様々な発見に恵まれる事を願っております。
さぁ~っ、 この 「 限りない夢、あふれる情熱 」 を 読み進め、経営者としての貴方が自己変革のための新たな発見や、心に刻む 「 名言・格言 」 を 探す旅に、私と一緒に出かけましょう。
… ・・ … さて、読み終えましたでしょうか?
以後、同じように該当する回毎に 「 限りない夢、あふれる情熱 」 を、青年農業経営者の皆さんにお読み頂き、
その後でこのブログを読むと言う進め方で、
今日までの 本田技研工業株式会社 の 躍進を、皆さんと共に研究したいと思います。
時間のある方は、次回の 「 このブログのコーナー 」 が アップになるまでに、
予め 「 限りない夢、あふれる情熱 」 の 第2回分を、予め読み進めておいて頂きますとスムーズかと思います。
さて、本題に入りますが、 最初に 本田宗一郎さん は、どんな少年だったのでしょうか? 興味のあるところですね。
それは本人が自ら書き表した著書から知ることができます。
「 スピードに生きる 」 著者 本田宗一郎 実業之出版社 【立ち読みができます】
著書の中で彼は 「 人生五十年、教訓もなく劇的な波瀾もなかった 」 と 述べておられます。
本田技研工業株式会社の発展を描いた著書は、この他にも数々出版されております。
それらの著書を読んでみても、彼の生涯には相当な波瀾があったはずなのに、当の本田宗一郎氏は、
この著書の中で、
上記 「 人生五十年…教訓もなく劇的な波瀾もなかった。
・ た・だ・ 平・々・凡・々・、 オートバイの… … ・他・愛・な・い・ 悪戦苦闘をつづけてきただけである 」
「 ただ1つ言える事は、
・一・本・に 打ち込める仕事をしつづけてきたと言うことである 」 と言い切っておられます。
つまり、描いた 「 夢 」 を 追いかけている人は、他人から見れば波瀾万丈でも、当人は波瀾万丈とは ・受・け・止・め・て・い・な・い・ と言う事実が解ります。
もう一つ人生はやはり 「 一本の打ち込める仕事を続ける事ができる 」 と言う事は、幸せな事であり、できれば仕事は 「 一本に打ち込む 」 ・べ・き・だ・ と私は思います。
さらに 彼は、 「 自らの生命の命じるがままに、生きてきたのであり … 」 とも述べておられます。
これは冒頭で 「 ガソリンの臭いが好きで好きでたまらない。 私の趣味が… 」 と の記述からも、さらに機械が好きであった事からも 「 自らの生命の… … 」 が理解できます。
したがってこれらの事から、本田宗一郎氏が自らの人生五十年を振り返って、 好きで好きでたまらない道 を 歩んで来られた事も理解できます。
この少年時代を理解しますと、 「 生きたいように・・・ 」 の 記述が、素直な彼の気持ちを的確に言い表していると感じます。
まずは第1番に、自らの事業を起こすにあたっては、
その事業分野が 「 好きで 好きで たまらない 」 と 言う事が ・大・切・ だと私は・注・目・しました。
しかし、本田宗一郎氏のように生まれながらに 「 好きで好きでたまらない 」 などの事業分野に巡り会える方は、数少ないのではないかと私は思うのです。
実際は、今の仕事を好きで選んだのではなく、たまたま今の仕事に就いたと言うのが大半の方々の実感ではないでしょうか?
「 いや、それが天が貴方に与えた運命だ 」 ・な・ど・と 野暮な事は言うつもりはありません。
そうならば、せめて 「 嫌いでない 」
「 好きになる 努力を重ねる事が・で・き・る・・ 」 事 が 肝要だと私は思います。
何故なら人生は長いのです。 「 嫌い 」 では、その仕事を 継続してゆく事は、できないと思うからです。
したがって長い人生をかけて、自らの 「 夢 」 を 具現化するためには、
本田宗一郎氏のように 後で振り返ってみて、
「 ・・教・訓・も・な・く・ ・劇・的・な・波・瀾・も・な・く・・ 」 と 言い切れるように、
その仕事を 「 好きになる 」 事が ☆・必・須・☆ だと思います。
多分多くの プロと 言われる方々で、
それなりの成果を収めておられる方々は 「 その仕事が好き 」 な方々が大半だと私は感じます。
しかし、生まれ出でたときから 好き なものを持って、
この世に出て来た方は、いないのではないかと私は思います。
人は、最初から好きな 仕事(労働) を 描ける人などいないと感じます。
【 生まれつきの天才は別かも… 】
しかし、プロと呼ばれる方々の中でも成果を収めた著名な方々に、
「 今の仕事が好きですか? 」 と 尋ねれば、
100%の方々が 「 好きです 」 と 答えてくれると私は感じます。
多分、私が推察するに、彼等は人生のある段階で、今の仕事が 「 好き 」 に なったのだと思います。
ある意味で、幸せな方々なのだと私は感じます。
では、どうして彼等はその仕事が好きになったのでしょうか?
また、どうしたら、今の仕事を好きになれるのでしょうか?
きっと、その発端は、創意工夫の成功にあるのだと私は感じます。
その道を深く掘り下げ、工夫・アイディア・知恵が積み重なり、
それが、さらに本人の興味を引き出したのだと私は推察しております。
その 「 創意工夫 = アイディア ・ 知恵 」 の成功体験が好循環を生み出し、
それが 「 得意 = 喜び 」 となり 「 好き 」 という認識に結びついたのだと思います。
したがって 興味 が先か 創意工夫 が先か は定かではありませんが、
それらの好循環が、やがてどんな困難をも乗り越える、「 エネルギーを生む 」 の だと私は感じます。
その 「 エネルギー 」 は、目的達成に向かう事が、 苦しみではなく
どちらかと言うと喜びと認識しているため、
「 一本に打ち込める仕事を つづけてきた 」
「 自らの生命の命じるがままに、生きてきたのであり 」
「 人生五十年、教訓もなく劇的な波瀾もなかった 」
と 言わしめるのは、目的に向かって歩む過程の 「 エネルギー 」 が、
「 好きで 好きで たまらない 」 の 「 エネルギー 」 が、
どの程度だったか なのかに掛かっているのだと 私は感じます。
一般的に、我々の間ではそのエネルギーは 「 好き 」 という表現で使われているのだと思います。
【名言・格言】
「 好きとは、楽しい事 」 楽しくなければ ・・好・き・に・は・なれない … と私は理解しています。
本田宗一郎氏が好んで用いた言葉 「 惚れて通えば、千里も一里 」
つまり、その興味が湧く事による ・好・循・環・ が、
何時しか本人が 「 その道が好きだ 」 ・と・の、
認識を強く抱くようになるのだと思います。
仕事の好きは、後天的な要素がかなりの部分を占めていると感じます。
子供が学校の勉強で何が一番好きか?との問に
得意科目を挙げるのと似ているのだと感じています。
つまり成功体験が興味をさらに増加させているのだと感じます。
少なくとも、・男・女・間・の好き嫌いの感覚とは違うのではないかと思います。
したがって、仕事を好きになるには、その興味の好循環を生み出す事が肝心なのだと思います。
多分、「 興味の好循環のスタート 」 は、
工夫 ・ アイディア ・ 知恵 の 「 成功体験 」 な のではないでしょうか?
その 「 創意工夫 」 の 成功体験は、
数が少ないのは当たり前との明確な認識が大切だと、本田宗一郎氏は述べておられます。
その上での 「 挑戦 」 が 大切なのではないのでしょうか?
【名言・格言】
自分はこれが好きだと思い、自分はこれを … … 教育の主眼のひとつであろう。
ガソリンの臭いが好きだった本田宗一郎氏は、出会いに恵まれた方だったと感じます。
彼のような例外を除けば、仕事を好きになるには、失敗にめげずに 工夫 ・ アイディア ・ 知恵 を 限りなく出し続け、自らの目標に向かった、仕事に没頭しチャレンジする事 か ら し か 、 好きだとの感情は生まれて来ないのではないでしょうか?
創業は1948年9月24日であると記載があります。
そう、1948年を年号に置き換えますと、昭和23年となります。
この昭和23年頃の日本は、太平洋戦争に敗戦し、まさに戦後の混乱期の真っ直中にあった事が、この内容からも容易に想像できます。
さて本田宗一郎氏は、創業の翌年である昭和24年に、竹島氏の紹介で、その後良きパートナーと評される 「 藤澤武夫氏 」 等 の方々と出会ったとあります。
そうなのです。
ブログ読者の皆さんの中にもピンと感じられた方もいらっしゃると思いますが、
ビジネスを成功に導くのには、 「 燃えるような情熱 」 と 「 限りない努力 」 の他に、
「 ・良・き・出・会・い・ 」 が、大切だとこのブログでも紹介しております。
本田宗一郎氏の活躍から経営発展を学ぼうとする時には、 「 藤澤武夫氏 」 との出会いなくしては語れないほど、お互いに緊密な関係にあったと私も聞いております。
その 「 ・良・き・出・会・い・ 」 をこのブログでは、単なる物理的な出会いではなく、
「 偶然のなせる技 」 で もなく、
「 自らの意識として出会いを認識=意図的に認識 」 しているのだ との見解を申し上げております。
つまり数多くの偶然の出会いの中から、
本人が意図的に意識 「する」 「しない」 に関わらず、
自らが 「 ・良・き・出・会・い・だ・ 」 と ヒラメク=認識する出会いは、
どのようにして生まれるのでしょうか? そこが ・ポ・イ・ン・ト・だ と私は感じます。
その 「 良き出会い 」 については、このブログで、
その出会いを求めている
「 経営者本人の心 = 意識の周波数が、大切なのだ。
ポイントなのだ。 」 と私は申し上げております。
「 心=意識の周波数 」 を 「 自らが願う良き出会いの周波数 」 に 合わせる事。
意識の上で 「 自らが願っている良き出会の心の周波数 」 に、
合わせる = 自らの ・意・識・を・調・整・ する事が、
「 良き出会いのスタート 」 として 必 要 なのではないかと述べております。
例えば分かり易く、人と人との出会いを 「 例にとれば 」
その出会いを意図的に、こちら側が求めても、
相手方がその物理的出会いを、良い出会いであると 認識しない場合は、
その出会いは、成立しないと言う現実があります。
この例は、誰しもが経験上 解っている と思います。
また、その逆に相手方が意図的に出会いを求めていて、かつ物理的に出会ったとしても
こちら側がその物理的な出会いを、
良い出会いと認識しなければ、この出会いも成立しません。
つまり、 「 良き出会い 」 を 成立させる為には、
どちらの 「 心 も=意識の周波数が同じ 」 で なければ、
人と人の出会いは、成立しないはずです。 【 再確認 】
多分、感動的な出会いは、この 「 心の周波数 」 が、ピッタリ合っている時なのだと私は思います。
したがって、経営者としての良き出会いを求めるとすれば、
経営者自らが 「 かく在りたい 」 との、 「 心の周波数 」 を 定める必要があります。
その 「 心の周波数 」 を 定める作業の1つが、
「 経営の理念 」 を明確に、打ち立てる事だ と 私は感じます。
さらに、その 「 自ら打ち立てた理念 」 を
「 行動で示し 」 発信 を 続ける事だと私は強く思います。
このブログの 「 素敵な経営者みぃ~つけた 」 で紹介している どの経営者も、
経営を始めた 当 初 は、 「 何とかしたい 」 と
「 『具体的な1つ ひとつ の悩み』 を 常に持ち続けておりました 」
その 「 具体的な悩み 」 の解決を 模索する過程で、
或いは新たな事業を立ち上げるにあたって、
当人の 「 経営を改革する意識の根底 」 に 涌き上がり宿っていたのが、
「 それぞれの経営者の理念 」 でした。
その当時は明確に整理されていなかった方もおられると推察できますが、
その各経営者の 「 理念の発信 = 心の周波数の発信 」 が 、
抱えていた経営上の 「 悩み 」 を解決する 「 解決策のヒ・ン・ト 」 となる、
「 人 または、情報 」 と の出会いをもたらしたと、私は感じているのです。
その解決策のヒントとなった 「 現象や人または情報 」 は、
それ以外の 「 数多くの現象や人または情報 」 との出会いの中から、
経営者自身の 「 理念 」(=経営感覚・センス=心の周波数=同じ周波数を捉えるアンテナ) と 、
その出会いを、同じ周波数であると共振(=キャッチ)し
「 良き出会いである 」 と
認識するのだと理解しております。
数多くの出会いの中から取捨選択したのだと言う事が、
重要なポイントだと私は感じているのです。
本人にとっては、それらの 「 出会い 」 は、予想していない以外な場面で出会ったように感じる事が多いので、一般的には偶然 「 出会った 」 と 「 認識 」 してしまっている事が多いのだと思います。
したがつて、 「 出会いは偶然のなせる技 」 「 人智の及ぶところではない 」 と 一般的には、理解されてしまっているのではないかと私は感じています。
このブログの別コーナーで、 『 良き出会い 』 は偶然に出会っているのではない。
私 「 吾妻山の風 」 の見解としては、
事業を起こし、それを経営する者は、
一般的には偶然のなせる技と整理されている
その 「 出会い 」 ・さ・え・も 「 自らの意志で認識して行くのだ 」 と
経営に関わる全ての事象 を 「 積極的視点で解釈すべし 」 と、
「 全ての事象を積極的に解釈 」 する事を お勧めしておりました。
つまり経営改革を志している、このブログの読者の皆さんには、
「 良き出会い 」 は、物理的に偶然起こる事とは捉えず、
それらの、 『 出き会い 』 を ・き・ち・ん・と 認識できるよう
「 自らの五感を磨き、意識の転換を図る事
= 経営者の意識改革を重ね続ける事 ・こ・そ・が 大切である 」
経営者の ・意・識・改・革・ とは、
心の周波数を、良き出会いの周波数に変える事 = 自己の意識を変革をする事である。
その努力により、 このブログでは
「 ・良・き・ 出会いは、 ・も・っ・と・ 掴めるものである 」 と 積極的な視点で出会いを整理をしております。
経営者としての 「 意識の転換を図る事 」 = 『 自己の意識を変革する事 』 は、
「 人と人 」 の 出会いに限らず、
「 問題解決の為の ヒントやアイディア 」 等の 出会いなど
すなわち 「・良・き・出・会・い・」 の チャンスを広げる と共に、
その ・出・会・い を 「 的確につかみ取る事
= 明確に認識出来る 」 ようになる事なのだと理解すべきです。
このような 「 前向きな解釈 = 積極的な意識の姿勢 」 こそが、
事業を起こし、それを経営する者としては、
非常に重要なのだと、
私はこの 「 限りない夢、あふれる情熱 」 の
本田宗一郎氏の生き方からも学び取る事ができました。
さて、長くなりました。
そのような観点から 改めて 「 本田宗一郎氏 と 河島喜好氏 」 の、2人の出会いを見直つめてみましょう。
上記の 「 積極的な意識 」 が、お互いが、 お互いの必要性を認識した (=出会いを認識した) と 理解する事ができます。
P10 の冒頭に
「 少なくとも本田技術研究所の名を、辱めないだけの自転車用補助エンジンに仕上げてあった… 」
「 …もっぱら口コミで、たちまち評判になった 」
「 ウワサを聞きつけて、… … 買い手が浜松にやって来た 」 と
本田宗一郎氏の心の周波数 = 理念 が、情報として発信されておりました。
これらの情報を始め、それ以前の
「 こんなのできたからお母さん乗ってみろよ 」 も含めて、
2人が直接出会う前に、出会うべき2人を引き寄せる要因としては、
直接間接を問わず ・数・多・く・ の ・情・報・ が あったと推測できます。
それらの情報の1つ1つを、2人の意識が、それぞれ有効な情報として認識する事によって、
それらの認識された様々な情報が、それぞれ 脳 裏 で整理され 紬あい、
2人の間を結びつける糸 (良き出会いとの認識) と なったと私は感じます。
その 「 直接間接を問わない情報を紡いだ心の糸 」 は、
次第に太くなり、結果として2人を引き寄せ結びつける、
2人に 「 共に歩もう 」 と の意思決定をさせたのだと、私は理解しました。
それは、 「 学校出の人に 払うような… … 」 の本田氏の発言に
「 それでもいいですよ 」
「 … … とにかくエンジニアらしい仕事を … 」 の 河島氏の返答や
「 おやじさんは浜松で有名な技術者でしたから … 」 な ど からは
河島氏の心の周波数が本田氏の心の周波数と合致していた事が理解できます。
特に、何らかの事業を立ち上げ、
それを経営しようとしている 所謂 「 経営者 」 の方々は、
上記のように、全ての事象を
「 積極的に解釈する = 責任を持つ = 他に転化しない = 出会いまでも… 」 と言う、
「 基本的な心の姿勢 」 を 保ち続ける事が、非常に肝要だと私は思います。
私 「 吾妻山の風 」 は、
本田宗一郎氏が生涯にわたって発し続けた言葉に触れる度に、
私はそれらの著書の中に、以下のような文字を見つける事はないのですが、
「 前向き 」 「 積極的 」 な 姿勢を 感じ取り、
経営者としての 意識 = 心の姿勢 = 心構えの大切さ を、
強く感じております。
つまり、 「 経営改革の第一歩は、取り入れた知識を、記憶する事ではなく、
多くの経営者が述べている経営者としての意識の在り方に
自らの意識を、 どう・近・づ・け・る・ かが大切なのだ 」 と 私は気づきました。
さて話しは元に戻りますが、この2人が自らの会社を 「 世界1にしたいとの 『夢 』 」 を 描いてから僅か12年で、念願の 「 世界1のオートバイメーカー 」 としての社会的な評価を得る事となります。
この時点で、後の 「 本田技研工業株式会社 」 は、その社史の中で1つの節目を向かえた事となります。
この表紙の写真のエンジン付き自転車の上に、「 本田宗一郎氏直筆の 『 夢 』 の文字 」 があります。
如何でしょうか? うまく見つけられましたか?
彼の筆跡をたどって 「 夢 」 の文字を読み取る事ができましたか?
「 本田宗一郎氏 」 が、この文字を書いた当時に、彼が描いていた『夢』への 「 熱い想い 」 を 感じ取って頂けたでしょうか?
ここで 少し 前に戻りますが、 P7
(1) ・1948年9月24日を覚えていますか? をクリック願います。
青年農業経営者の皆さんにも、このページで紹介している新聞記事の内容から、その当時の社会の状況がおおよそ想像できるかと思います。
そうなのです。
当時は敗戦後の混乱の時期でしたから、あらゆる物資が不足しており、所謂 「 物不足 」 が 日常化していた時代でした。
その 「 物不足 」 の生活状況を象徴的に現しているのが 「 食料不足 」 に 関する記述ですね。
そう、国民にとって大切な主食である 「米」 は、当時は自由に買うことができなかったのです。
自由に買えないと言う事は、政府がその 「米」 を統制していたと言う事です。
お客様は 「米」 を配給制によって買っていたのです。
私 「吾妻山の風」 も記憶に残っておりますが、当時は 「 米の通帳 」 が各家庭にあったのです。
その通帳には家族構成が分かるようになっており、その 「 米の通帳 」 が ないと、お米屋さんから米を分けてもらえなかったのです。
うまい仕組みを作ったものですね。
一方、生産者である農家の方々は、生産した 「 米 」 を家族の分を除いて、必ず農協に納めなければならなかったのです。
その代わりと言ってはなんですが、農協に納めたお米の販売価格は、政府により保証されていたのです。
不足する食料を、国民が平等に分け合う仕組みでもあり、価格を保証する事により、生産を奨励し安定的に食料増産を成し遂げる仕組みでもあったのです。
これを 「 食糧管理制度 = 食管制度 」 と呼んでおりました。
さて、 「 P7の記事 」 の内容では、一般人の1人3食分の配給量は2.5合となっています。
昭和23年頃は、非常に少ない配給量であったと私は感じます。
ちなみに、この年の米60Kgの価格は、1487円であった事が解ります。
「 こんなのができたから、お母さん、乗って走ってみろよ 」 「 女でも扱えるどうか知りたかったのが本音だわね 」 「 人がいっぱい … … 」 「 本田の目論見には、街での話題づくりも入っていたらしい 」 等 の記述は 暖かな夫婦間のやり取りが、微笑ましく伝わって来ます。
【 私は、このエピソードから やがて、
世界中の人々に、今でも 愛され続けている 「カブ号」 へと繋がったのだと感じております。】
この頃の時代に創業した企業の中から、今日の日本の経済を牽引する多くの企業が産声を上げたと聞きます。
多くの中小企業はこれ以降、生まれて来たと言えます。
各地方で活躍している市場の社長さんや、食品加工の社長さんの中には、
この頃、リヤカーを引いて行商に励んでおられた方々が数多くいらっしゃり、
それらの逸話は、今でも各地方に多く残っていると思います。
多分、皆さんのお祖父さんやお祖母さんの中には、
それらの方々の発展過程をご存知の方がいらっしゃると思います。
それではここで参考のために、戦前から既に物づくりで先行していた一部の企業を、独断と偏見で、以下に紹介させて頂きます。
まずは現在活躍中の企業としては、
「TOYOTA」は創業は昭和12年です。
同じ頃に創業した企業には、
「 Panasonic」創業は大正7年
「FUJITSU」 「BRIDGESTONE」 等々の企業が創立しています。
これらの企業の中には、戦後になって、
創業当時に製造していた 「 商品=物づくり 」 から変身し、
今では創業当時とは、別の製品がメインとなっている企業もみられます。
いずれにしてもこの様に多くの企業が、戦前から既に創業していましたので、戦後に立ち上がった 「 本田技研工業株式会社 」 等 のような企業は、それらの既存企業との競合を避けるような形で 「 物づくり 」 を始めざるを得なかったとも推察できます。
「 ホンダ 」 は二輪の生産、
「 ソニー 」 はテープレコーダーとトランジスターと
大半が 戦前からの各企業が製造していない商品づくりから出発 しておりました。
ちなみに他に戦後に立ち上がった企業で、代表的なものとしては、
皆さんご存知の 「SONY」 があります。
その「SONY」の前進は、「 東京通信工業株式会社 」 で、
1946年(昭和21年)に創業を開始しております。
こちらも有名な 「 井深大氏 」 と 「 盛田照夫氏 」 両者の、
良き出会いが一般にも広く知られています。
その 「 設立趣意書 」 からは、
資源に乏しい我が国を、技術によって立て直そうと言う、
並々ならぬ決意を、読み取る事が出来ます。
さて、皆さん 「 本田技研工業株式会社 」の 素晴らしい事は、
ここにあるのです。
今後、本物の農業経営者を目指す方々には、必ず肝に銘じておいて欲しい部分があります。
素晴らしいパートナーであった 「 藤澤武夫氏 」 の 「 専務言行集 」 の 「 六有斎 」
(1)林 子平は、… … 明治維新以来 … … これが吾が社の特質であり誇りである。
是非、ぜひ、自ら立つを基本に据えてられるよう願っております。
その他としては、
「京セラ」 「KDDI」 「富士重工(=1945年がスタートと整理)」
「デンソー」 「日本航空」 「全日空」 等 があるようです。
あえて現在に最も近い年代に創業した企業として、昭和41年(1966年)以降の企業としては、
「三菱自動車」 が あると整理されているようです。
さて、逆に現在活躍中で最も歴史のある企業を探してみますと、
等があり、これらは非常に古い企業である事が解ります。
さて、長々と各社の発展の歴史を、ご覧頂きました。
青年農業経営者の皆さんは既にお気づきの事と思いますが、所謂 「 物づくり 」 としての大半は戦前に立ち上がっている事に気づきます。
ご承知のように、 「JT」 や 「JR」 「NTT」 は、いずれも国が国民の利益のために国が自ら事業を行っていたものを民営化したものです。
こうしてみてみると、物づくりとして発展を遂げた大きな会社は、 「ホンダ」 「ソニー」 等の時代で、ほぼ出揃ったのかなとの感もあります。
青年農業経営者の皆さんは、どう感じられますか?
「 おゃ~っ… … 」
「 ・1・つ・大・切・な・も・の・を、忘れていやしませんか~?」
そう、 「 物づくり 」 で一番大切な 「 食料の素材 = 農業分野での大企業が見あたらないではありませんか? 」
「 小売業や流通関連でも、大手と言われる企業が存在しておりますが、どうした事でしょうね? 」
遅くなりました。 実は、… ・・。
今後の期待も込めた、私 「 吾妻山の風 」 の見解ですが、
「 ・・こ・れ・か・ら・な・の・だ・と・感・じ・ま・す・・ 」
「 ・こ・れ・か・ら・・ 」 農業分野で生物多様性も含め、
環境に配慮した企業が台頭してくるものと感じるのです。
その背景としては、今世紀に人類が抱えている課題があげられると思います。
その抱えている課題は 「 人口問題、食料問題、エネルギー問題、水を含んだ環境問題、 」 だと聞きます。
さて、これらの諸課題を解決するには、農業との関わりを無しにしては、その解決の糸口さえ見つからないと私は感じています。
一つ、我が国の農業関連分野の、キノコ関係では企業として発展した会社を見つけました。 創業当初は包装資材の会社としてスタートした様です。
昭和39年ですがキノコの研究所を設立した昭和58年1983年から本格的に生産を開始したと推測できます。
キノコ関係ではもう一つ、二部上場の会社がありました。
こちらは当初からキノコの会社としてスタートしております。
不思議にも上記の会社と同じ昭和58年1983年に創業です。
畜産では大型の牧場が株式会社として登場しております。
大型の牧場タイプとしてブログでも牛関係で1つ 昭和50年1975年法人化、
さらに 豚関係で1つ 昭和42年1967年 取り上げております。
その他では、超有名な牛の牧場があります。 昭和56年1981年スタート
先ほどの 「JT」 「JR」 「NTT」等の 昭和41年(1966年) の会社群よりも、ずっと遅いのが解ります。
いかがでしょうか?
時代の流れは、そろそろ農業分野に光りを当てつつあると感じませんか?
今のところはキノコ関係や畜産関係が主ですが、その他の分野も含めて、今後まだまだ発展してくる会社が 「 ・出・て・く・る・・ 」 ものと感じます。
また、 「 出てきて・欲・し・い・・ 」 と・願・っ・て・も・お・り・ま・す・・。
つまり、 「 農業と関わりを持った大きな企業 」 や 「 農業を基盤とした大きな企業 」 が 活躍する時代がやってきていると私は感じます。
これから益々グローバル化が進展する中にあって、農業経営を発展させてゆくためには、時代に適応した 「 新たな農業のビジネスの在り方 (構築) 」 が 求められているのだと思います。 ( 新たな経営スタイルの構築 )
つまり従来の農業経営の延長線上だけではなく、
お客様が求めている価値ある商品を提供する ・新・た・な・収・益・ の仕組みを、
模索する必要があると感じます。
お客様の求める 「 価値ある商品 」 は、その提供される ・価・格・ と ・密・接・ な関係にあります。
したがって、収益を上げる仕組みを考える場合、
その行程が余りにも少ない場合は、
コストに弾力性がないと言えます。
価値ある商品のコストを コントロールできる幅が少ないと言えます。
したがって価格の乱高下によってまともに収益が少なくなります。
コストに弾力性を持たせるには、
工程数を増やし、その1つの行程を重ねる毎に、
それ以上に商品としての価値を上げる必要があります。
行程が多ければ多いほどその利益を上げたり、
コストを下げたりする機会が増える、つまり商品価格の変動に弾力性があると言えます。
お客様が買い求める価格以上の満足感 (お買い得感) を 感じて頂ける
商品の提供を目指すことが 「 グローバル化を乗り切る手だて 」 の 1つとして、
価値を高めながら価格を抑える
=手間暇をかけた以上に価値を高める事が必要なのだと感じます。
この取り組みが 自らの商品に 「 経済的な弾力性を持たせる 」 事 となります。
さて、 話しは戻りますが、 P8 にみられるように、
「 しばらく何もしないよ 」 と 宣言した頃の本田宗一郎氏は、既に家族を持たれていて子供は3人だったようです。
宣言どおり 「 何にもしなかつた 」 ので、近隣の人々からは 「 何にも仙人 」 などと呼ばれていたようです。
約1年後、弟さんと製造業を初め様々なものを試作しますが、 自らの情熱を打ち込むべき仕事には、・ま・だ・ 出会っていないようでした。
あの天才と呼ばれた 「 本田宗一郎氏 」 さえでも、その才能を開花させるまでの、期間は自らが打ち込むべきものに出会えなく、・迷・い・の・時期も あったのですね。
青年農業経営者の皆さんの中にも、まだ自分が経営者として打ち込むべき燃える物 (=作物や生産以外の経営の分野) を 見つけられずにいる方がいるかも知れませんね。
その方々も、まだ自らの才能を燃やすべき、具体的事業を描けなくとも焦ることなく、「 良き出会い 」 を求めて、大いに悩み模索を続けるべきだと思います。 (笑い…)
その方々は、せっかく天が与えてくれた貴重な迷いの時間ですので、自らが生涯をかけて打ち込むべきものへ向かって真剣に 「 悩み 模索する 」 時間を大切にすべきです。
そのために 「 農業関連の事業 」 を 求めて、地域内に籠もらず大いに出会いを求めて活動すべきと思います。
それらの活動が 自らの事業の 「 理念 」 づくりに役立つと私は感じます。
数多くの出会いを重ねるうちに、きっと 「 これだっ 」 と胸がときめく、具体的な事業のアイディアが閃いてくる事と思います。
(2)旧軍用放出エンジンとの出会い。 『 夢 』 と 『 時代の要求に応える 』 出発点 P8の後半になります。
1946年とありますから終戦の翌年(昭和21年)に、その後の彼の 「 夢 」 を育む 「 無線機発電用エンジン 」 と 出会ったとあります。
その様子を 「 これを見た本田の頭に、アイディアがたちまちひらめく。運命的とも言うべき瞬間だった 」 と 「 この出会いが、彼の向かう将来を決め、後のホンダを生むことになる決定的瞬間だった 」 と表現しています。
「 ― これを自転車用の補助動力に使おう ― 」
当時の 「 大衆の足は自転車 」 だった。
「 どれほど役に立つか 」 「 人に喜ばれて、同時に商売になるアイディアを、本田自身が最も得意とする分野の中で発見したのだ 」 と あります。
「 とはいえ、それは大衆にはとても手の届かない価格だった 」
「 戦前より劣悪になっていた日本の交通事情の中では、……山のような荷物を……。これに補助動力がつけられたら……。 」
「 どれほど役に立つか。人に喜ばれて、同時に商売になるアイディアを、……発見したのだ。 」
上記のこれらの表現からは、まさに彼が事業を起こそうと思い立った 「 企業理念=本田宗一郎氏の物づくりへの思い 」 を 汲み取る事が出来る部分だと私は受け止めました。
特に 「 価格 」の件に、 本田宗一郎氏が 「 手の届かない … 」 「 人に喜ばれて … … 」と 彼の思いを述べておられます。
ホンダ7年史によりますと、彼は 「 自転車が何時迄も人間の力の足踏みばかりに頼るべきではない。当然機械の力によりスピードアップして、自転車による仕事の能率を上げるべきだ 」 と 考えておられた様です。
さて、 「 ちょっと一服 」、、、「 皆さんこの考え方「何か感じませんか?」
現代の自転車は…
… 「 健康づくり等への関心のある方々や体力のある方々は、足こぎですが、現代では電気駆動の補助動力をつけたモノが人気を集めてもいますね 」 自転車の目的や価値が、時代によって変わってきている事と時代の流れを読み取る事が出来ます。
【 長期的羅針盤を どう持つかのポイントが、 ここにありますね。 】
さて、
本田宗一郎氏が創業時期に、事業を起こそうとした 「 熱い思い 」 を、
後になって整理したのが、
かの有名なホンダの基本理念である 「 三つの喜び 」 ですね。
後に彼自身が自らの言葉で直接社員に熱く語りかける事となります。
後に昭和26年12月 創業が昭和23年ですから
既に 「 三 つ の 喜 び 」 を社員に語りかけております。
これが 「 今日の本田技研工業株式会社を形づくる原動力となりました 」
現在でも 「 本田技研工業株式会社 」 の 「 経営理念 」 と なっております。
【 私は、この理念こそが 本田宗一郎氏に 数多くの素敵な出会いを もたらしたと感じております。 】
今でも当時の 「 本田宗一郎氏 」 の胸の炎の熱つさを感じて頂けると思います。
この 「 熱い理念 」 は、 現在でも 「 本田技研工業株式会社 」 の基本理念の中に
脈々と息づき引き継がれております。
「 自転車用補助エンジンは、 (一般のお客様が) 何とか買うことのできる画期的に便利な乗り物として歓迎されたのである 」 と 当時のお客様の購買動向も分かります。
当時の社員は12~13名
「 …、女でも扱えるかどうか知りたかったのが本音だわね。 」 と は、いかにも本田宗一郎氏のアイディアは販売等も含めた、全ての段階で得意のアイディアを出しまくっていた様子を知ることが出来る、 エピソードだと私は感じました。
「 …、試乗してから売っていた。 」 「 今の完成車検査のハシリである 」 「 少なくとも本田技術研究所の名を恥ずかしめないだけの、 自転車用補助エンジンに仕上げてあった 」
上記の記載から、今日では当たり前の 「 製品管理 」 と 「 検査 」 ですが、当時から製品に対する愛着とか思い入れは強かったのだと思います。
それだけの製品であれば、当然の帰結として、買い手が浜松にまでやって来ますよね。
しかし、500台位程を生産した頃に、肝心の 「 無線機発電用エンジン 」 が 底を尽きます。
したがってこの状況が、彼に独自のエンジンを発明する決意をさせ、昭和22年に最初のA型を生む動機付けとなった訳です。
この 「 無線機発電用エンジン 」 が 底を尽きた問題を解決すべく 「 独自のエンジン 」 をつくり、それが本格的な今日のホンダの発展に結びつく第一歩となった言えます。
なんと驚く事なかれ、この頃45歳の若さで本田技研工業株式会社の代表取締役に就任する 「 河島喜好氏 」 が 浜松工業専門学校 (現在の静岡大学工学部) を、卒業し、就職する事となり、本田宗一郎氏との出会いが巡ってくるのです。
インタビューによると彼は、
地元で評判であった事、
就職難であった事、
を背景としてあげておりますが、
「 河島氏 」 は 既に地元で評判になっていた社員十数人の会社で、
設計図を引ける人を探しているとの情報を得た事、
をその理由として述べております。
就職難であった事は、この時代同じ学校を卒業しても誰でもが同じ条件であったと理解して、
私 「 吾妻山の風 」 の 「 出会いに関する解釈 」 を 当てはめてみますと、
河島氏の 「 …もう、いくらでもいい。 とにかくエンジニアらしい仕事をさせてもらえるなら何処でも良かった。
おやじさんは浜松で有名な人でしたから、その人のところで働けるなら … … 」 と の思いと、
「 図面を引ける人を探している 」 と の情報を、河島氏が得た事がポイントだと思います。
つまり2人の出会いには、次のような条件 ( 心の周波数の一致 ) が あって成り立っていたと私は感じます。
皆さんは、どう感じられしたか?
本田宗一郎氏が 「 技術者として真摯にしかも情熱を持って仕事に打ち込んでいた事 」、
「 その仕事姿勢に常に貫かれていた会社の姿勢が地域で評判になっていた事 」、
その背景として大切なのは
既に 「 三つの喜び 」 に 繋がる経営哲学的な想いが、
本田宗一郎氏の胸の中に燃えたぎっていた事、
などに着目すべきだと思います。
つまり今日のホンダにまで繋がっている 「 基本理念 」 が
河島氏に 「 エンジニアの仕事をさせてもらえるなら 」
「 おやじさんは浜松では有名な人でした 」 と
当時の状況を語らせているのだと私は思います。
「 良き出会い 」 の為には、 「 良き出会い 」 を 求めている社員の双方に 「 良き出会いに似合う良き意識 」 必要なのだとここでも理解する事が出来ます。
つまり、お互いの意識の在り方 ( 心の周波数 ) が
意識に見合った出会いを引き寄せる
( その心が、同じ心の周波数だけを感じとるアンテナなのです ) のです。
【名言・格言】
その 「 ・良・い・出・会・い・に・巡・り・会・え・る・ 、 ・良・い・意・識・ 」 を、 自らの脳の内部まで染み込ませ、
五感を通して、自然に出会いをキャッチ出来るようにまで
「 認識の周波数を良い意識 」 に 高めておく事が肝要なのだと私は強く感じます。
多分 「 男女の出会い 」 も 同じなのだと、私は感じております。
お互いの意識(=ハート)が ・共・鳴・し ( = トキメく事が)・な・け・れ・・ば、
たとえどの様な情報(言葉や仕草、ファッション等の情報)を発信しようとも、
お互いの意識が (素敵だ等と) ・認・識・ す・る・事・は・な・・く、
したがってお互いが物理的に引き寄せ合う(出会う)事は ・ な ・ い ・ の ・ だ ・と思います。
私は「良き出会いを求めている経営者側の意識の改革」が如何に大切かが、この 「 本田宗一郎氏」 と 「 藤澤武夫氏 」 「 河島喜好氏 」 「 旧軍用放出エンジン 」等 との出会いの事例から解りました。
ついでですが、当時の補助エンジン付き自転車は一週間で10台のペースで造っていたようです。
彼は、既にこの時点で特許を取っています。アイディアマンなのですね。
(3)『個性のない技術は、価値が低い』。いきなりホンダらしさが始まった
伝説のエントツエンジンのエピソード
「 そのままなんてのをつくるのが、絶対に我慢できない。
マネするのが嫌いなわけですよ 」
との発言から学べる事は、この 「 マネをしない=独自性を追求する 」 と 言う 「 本田宗一郎氏 」 の 気概有る気質が、 「 本田技研工業株式会社 」 の社風を育て、結果として会社を四輪車の事業にまで、飛躍的に発展させる原動力となったと私は思います。
「 どこが新しいんだ? どこがヨソとちがうんだ? 」 は、本田宗一郎氏の口癖はだったようです。
そして 「 前衛に過ぎたがゆえの失敗。 それはこの後のホンダで何度も起きる 」
「 しかし転んでもただでは起きない。 失敗の経験を、後に必ず成功の糧にしてしまうのも、ホンダだった 」
【名言・格言】
「人間は失敗する権利を持っている。しかし失敗には反省という義務がついてくる」
青年農業経営者の皆さんも 「 ホンダ 」 と聞けば、 「 ・独・創・性・ 」 と の文字が脳裏に浮かぶと思います。
そうなのです。
如何でしょうか? これまでの特に農業の世界とは、まるで違いますね。
農業の世界では、まずはどこかでやっていないか?
次に視察研修をして、他のマネをしながら進む事が当たり前でした。
常に何処かに 「 モデルを探してその 『 マネ 』 をする 」 と 言うのが、きわめて日常的に行われていました。
さて、皆さん物不足の時代であるならばまだしも、
モノ が 溢れる程の社会状況になって、
今日では農業の世界でも、或いはその他の世界でもマネをすると言うのは、
初めて差別化の必要性に迫られたのが普通だと私は感じます。
しかし、この 「 マネ 」 がその後にその事業が、伸びれるかどうかに繋がってくるのかどうかが問題なのですね。
何故かと言えば、第1にモノが溢れている経営環境下では、その商品の 「 ・独・自・性・ 」 を 追求する事、他と同じものではないと発信する事が重要となります。
したがって、その独自性を追求している過程で、
自らの体験し、その失敗の過程で学んだ、
全ての 「 知恵 」 や 「 工夫 」 が、
或いは試行的に行う過程での社員の経験が、
蓄積される事が社員を強くするのですね。
「 本田宗一郎との叱られ問答 」 その事の方が大切だと私も感じます。
「 マネ 」 をして 「 楽をして 」 「 安全に 」 しかも 「 スピーディー 」に、
目的の事業を展開出来る事は、大変嬉しい事ではあります。
しかし、経営者としては、今日のグローバル化の時代を乗り切れる実力が、
自らの経営の中に、
そのノウハウが蓄積されないままに、事業が展開している事の方が、
その時点で、既に自らの経営の中に、
「 経営の危うさ 」 を 抱えていると、認識すべきなのだと思います。
独自の方式で進もうとすれば、数々の失敗は覚悟しなければなりません。
【名言・格言】
どんなに優れた天才でも、多くの失敗を積み重ねた末に成功の栄華を手に入れている事なのですね。
発明家で名高いエジソンでさえも多くの失敗を認めておられますし、我が国の科学者でノーベル賞を受賞された方々も、記者会見やその後の記事などを拝見しても、必ず数々の失敗があったと聞きます。
「 成功は99%の失敗に支えられている 」 と の格言を良く耳にします。
【名言・格言】
「私のやった仕事でほんとうに成功したのは、全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続であった」
「 私の現在が成功と言うなら、 私の過去はみんな失敗が土台づくりをしていることになる。 私の仕事は全部失敗の連続である 」
誰しもがこの格言を聞くと 「 なるほど 」 と 心から思うのですが、自らは失敗をし・て・ま・で・も・ 前に進もうとは、思わない・も・の・で・す・・。
なるべく・楽・に・ 進みたいと思うのが、 人の常だと私も思います。
つまり、実践学習には 「 リスク 」 が 伴うのです。
そのリスクを回避 或いは 和らげながら、
どう目的を達成するのか、
実践学習にはそれを乗り越える 「 知恵 」 と 「 勇気 」 が 要るのだと思います。
人生も 「 マ ネ 」 をして歩めば、
「 無難に、リスクも無く 」 しかし 「 面白くも無く 」 「 充実感もなく 」
歩む事になると思います。
「 楽しく 」 「 充実感のある 」 人生を歩むには、
「 リスク と 正面から向き合う事 」 が 必要なのだと、私は思います。
多分、他人のコピーの人生は、絶対に歩めないのだと思います。
どんなに 「 マ ネ 」 をし 「 リスク 」 を 避けて歩もう・と・し・て・も・・、
・一・卵・性・双・生・児・・ でも、全く同じ 人 生 は、あり得ないのですね。
したがって、青年農業経営者の皆さんには 「 マ ネ 」 の人生ではなく
自らの 「 人生を歩んで 頂きたいと私は願っております 」
青年農業経営者の皆さんが失敗を覚悟で学習する場合に、
大切なのは、その努力 (実践学習) を 経営的に、
大きな痛手を被らない程度に留める必要があります。
【名言・格言】
「 人間の努力とは、いつの場合でも … ・・・努力それ自体は … 努力には創意と工夫が必要である 」
したがって、その経営を左右するほどの痛手を避けながら、
努力 (実践学習) を どのように進めるかを、
その事例毎に創意工夫 を して学習を進める 経験を積む(=努力を重ねる) 事だと私は感じます。
学習しようとする 「 そのアイディア、その創意工夫 」 を、まずは 「 やってみる 」 「 実践する 」 「 体験してみる 」 事によって、
その過程であるいはその結果から、多くの事を 「 学び 」 「 気づき 」 「 身につける 」 事が出来ます。
さらに 「 程度を見極め 」 る事が出来て 立ち向かう 「 勇気 」 が湧いて」きます
大切なのは、それが自らの経営体 (自らと従業員) の血となり肉となる事だと思います。
そこから導き出された 「 気づき 」 が、次々と 「 新たなアイディア 」 を 呼び覚ます(刺激となる)のだと私は感じます。
新鮮なアイディアは、 よく 「 泉 」 に 例えられます。
良いアイディアは最初のアイディアを汲み上げないと、
もっと新鮮で良いアイディアが、渾々と泉が湧く如くは出てこないと聞いたことがあります。
さて、青年農業経営者の皆さんは、
【名言・格言】
「発明はすべて、苦しまぎれの知恵だ。アイディアは、 … … 人のみに与えられている特典である」
しかしその学びは、経営的痛手を大きく被っては、学習の仕方としては上手とは言えないと思います。
せめて、マネではなくその事例をヒントに大いに工夫をする。
何が何でもマネはしないと言う心構えがあれば、経営内部に 「 知恵 」 や 「 工夫 」 を蓄える事が出来ますね。
本田宗一郎氏の人生から私は、その 「 独自の道 」 を歩むと言う 「 ・思・想・と・決・意・ 」 が 大切だと私は学びました。
【名言・格言】
「仕事をする行為よりも、… ・・・ 思想が問題だ。 いくら技術が良くても… ・・・」
(4)『同じ苦労をするなら、先にしたほうがいい』。初の市販製品・ホンダA型。
一見、普通の2ストロークエンジンに込められた想いを読み進むと、
「 A型のホンダらしさはメカニズムよりも、やり方にあった 」
「 同じ苦労をするんなら、先に苦労しろ 」 と おやじさんは言うんです。
「 資源のない国の人間が削り屑を出すような仕事はするな… 」
「 苦労は前工程でやれ」「後行程の加工が要らなけりゃ、資源の無駄がなくなる 」
「 ここで精度が出せれば、そのための時間も人手も機械も要らないじゃないか 」
この 「 ダイキャスト 」 に まつわるエピソードは、物づくりの現場での本田宗一郎氏の才能に高い経営的センスを実感させてくれる一コマです。
つまり、農業生産の現場でも、
農畜産物の生産物を出荷するまでに、やらなければならない作業行程は数多くあります。
それをどの順序で組み立て実施するかは、
常に日々の作業を新たな視点で見直すと言う
「 改革の思想=常に前に進むという姿勢 」 が 無ければ成し得ないものと思います。
「 日頃の慣れ親しんだ行程 」 を 「 慣行的にその効率だけを上げて 」 実施しているのが普通だと思います。
しかし、我々を取り巻く経営環境を見ると、
常に新たな品種や資材、或いは農薬などが登場しているのが現状です。
したがって、
「 器具の応用 」 や 「 使い方の創意工夫 」 によっては、
別の作業がより効率的になるものはないかと、
絶えず作業順序の組み替え等も含めた改善・改革のための点検が必要です。
時間に余裕のある時期に後の作業を行えないか、
或いは1つの作業のついでに同時並行的に
後で行う予定作業が、器具を活用して出来る事があるかも知れないと、
常に検証し技術の改善を模索する意識 (改善の思想) こそが、
大切だと私は感じました。
続いて 「 コンベァーライン 」 の 導入にまつわるエピソードからも同じように私は感じます。
「 しかもそれは、作業する姿勢が楽で、部品の移動距離が短く、スペースが少なくて済むという、
それまでにない概念で考えられていた 」 と は、側にいて一緒に仕事をしていた者にしか解らない感覚なのだと思います。
本田宗一郎氏の発言は、 「 効率 」 を重視した今日では当たり前と言える、経営者としての発言ですが、
当時としてみれば 「 それまでにない概念であった 」 わけで、
如何に当時の彼の視点が、時代の先の先まで見通していたかが解るエピソードだと私は受け止めました。
【名言・格言】
「 金をかせぐよりも時間をかせげ 」
この本田宗一郎氏と社員のエピソードからは、
部品の精度が未熟でラインをスムーズに流す事に、
四苦八苦している社員の様子が目に浮かぶようですね。
「 ウチの製品は、組むのに腕だのコツだのが要るようじゃ駄目なんだ。
工場の従業員も、販売店の修理工も、おれみたいなやつばかりじゃない。
名人芸が要るようなものはつくるな 」
とは、 「 ああいう1つひとつがホンダの思想の基本… 」 と、河島さんが後に述べておられます。
「 しかし、言ってることは職人気質と正反対。
新し過ぎるくらい近代的な経営者の感覚なんだ 」 とも評されております。
本田宗一郎氏は、時間には価値を置いていた方のようです。
農村青年の集まりで 「 牛の耳はどこについているか … … アイディアの源泉は 」
以上が、 「 限りない夢、あふれる情熱 」 の第1回 の中から汲み取った内容です。
【名言・格言】
物の見方について、「私たちは見学の見」で「画家は … 」で … 。
如何だったでしょうか?
簡単に
<・・・まとめを・・・>
… 「 自分の仕事を ・絶・対・好・き・ になる 」 …
本田宗一郎氏は、紆余曲折はありましたが自らがガソリン等の臭いが好きで、結果として自らが打ち込める世界に出会い 「 自らの生命の命じるがままに、生きてきたので… 」 すね。
その 自らの好きな世界は、 迷っていてはなかなか見つける事は出来ないのだと思います。
仕事を好きになるコツは、自分と周りの関係を知り、自分の役割を自覚する。
その自覚した事を深く掘り下げてみる。
掘り下げて、 興味が湧けばそこに大なり必ず、 小なり自分なりの発見があると私は感じます。
掘り下げて発見が無い場合は、 子供の頃にかえってみる事も、 もう一つの方法としてあると私は感じます。
… 「 全ての出会いは意識の変化で変わる 」 …
つぎに 「 河島喜好氏 」 や 、「 藤澤武夫氏 」 と の出会 がありました。
この著書の中でも P14 で間接的に「すでに有名な存在だったの … 」 「 一度会ってみたいなとは思った … 」
P15 「 浜松の人はみんな彼をにがしてしまったのですよ 」 「 私は … … いっしょに組んで、自分の思い通りの人生を … 」 「 その人を面白くしなければ … 」
P17 で当時の出会いの感想を述べておられます。
「 初対面のときは、とくにどうということはなかった。 」 「 … … おれの望みを叶えて … 」
「 私よりももっと金をもっている人にあったら、きっと本田の夢は … 」
「 私はなにしろ仕事がしたかった。 自分の限界をしりたい … 私の夢 … 」
「 本田も自分のもっている 力を知りたい … 2人ともそれではなかったでしょうか 」
P18 の 「 私は商売人だから … … 」 「 うん、結構だね 」 の 一節は、実に本田宗一郎氏の求めていたモノと同じだと言えますね。
「 藤澤武夫氏 」 と の件については、「 第2回 」 で、お復習いの機会があります。
いかがだったでしょうか?
「 出会いは、自分の意識次第 」 だと 皆さんも感じて頂けたモノと思います。
せっかくの良い出会いも、 自分が意識として認識しなければ、出会いが成立しませんね。
この時代に創業して今日の日本の経済を牽引する企業が多く生まれたと聞きます。
「 おゃ~っ 」 「 1つ大切なものを忘れていやしませんか~? 」
我が国の これからの ・農・業・の・発・展・に・期・待・し・た・い・・もの ですね。
… 「 独創性=マネをしない 」 を 心がける…
その意味からも、時代に適応した 「 新たなる事業スタイル 」 が求められているのだと私は感じます。
大切なのは、単価の低迷に嘆くのではなく、 商品としてお客様に届けるまでの過程で、 どの位創意工夫を重ね、 お客様に満足頂ける商品に仕上げる事が出来るかも、 解決策の1つだと私は感じました。
「 どれほど役に立つか。人に喜ばれて、同時に商売になるアイディアを、……発見したのだ。 」 と の記載は、非常に重みのある記述と受け止めるべき部分ですね。
ホンダの基本理念 「 三つの喜び 」 として後に彼自身が自らの言葉で直接社員に熱く語りかける事となります。
【 物づくりの思想が大切 】
出会いも、事業のアイディアも根本となる要素は、熱い思いをどんな風に描いているかだと思います。
「 そのままなんてのをつくるのが、絶対に我慢できない。マネするのが嫌いなわけですよ 」 に 見られるように、マネをしない。
つまり独自性を追求する事こそ大切だと私も思います。
「 無難に、リスクも無く 」 しかし 「 面白くも無く 」 「 充実感もなく 」 歩む事ではなく、
「 楽しく 」 「 充実感のある 」 人生を歩むには、 「 リスクと正面から向き合う事 」 しかないと申し述べております。
… 「 失敗を恐れるより何もしないことを恐れろ 」 …
リスクを乗り越えるアイディアは、
「 牛の耳はどこについているか … … アイディアの源泉は 」 からも理解出来るように、
厚いベールを取り払い、現状をよく見ることだと私も感じます。
ちなみに、本田宗一郎氏は、社員に向かって 昭和27年に、 「 資本とアイディア 」 について、以下の様に述べておられます。
この中の 「 味噌とか醤油のような事業 」 は、農業にも当てはまるものと私は感じました。
なぜなら 「 その製造に一定期間を要するもの 」 だからです。
そのように内容を置き換えてこの本田宗一郎氏のメッセージを読み直した場合、青年農業経営者の皆さんはこのメッセージからなにを読み取りますか?
現代において農業を発展させる 「 カ ギ 」 は、 まさに 「 思想 (熱い思い) と それに導かれたアイディア 」 なのだと 私は ・強・く・思・い・ ます。
さぁ~ 貴方の 「 アイディアの泉 」 は、常に新鮮なアイディアがこんこんと湧き出でておりますか?
「 独自性 」 を 求める努力が、経営を発展させる将来へ向けた一歩なのだと
強く意識して自らが事業を行う思想を練り上げ、
日々の業務の改善から大きな経営構想の構築まで、
青年農業経営者の皆さんの全身全霊を傾注した経営活動に
「 ホンダスピリット 」 を活かして欲しいですね。
まだまだ 続きますよ。。 予め 第2回を 読んでおいてくださいね。
【 耀け 青年農業経営者 】
